宗教を研究してきた著者が80歳になり、「性根を据えて自分の死と向き合わねば」と考えたとき、いのちの最後の締めくくり、人生のけじめとして浮かんできたのが「始末」という言葉だった。
死にいたるきっかけは自分で決めることはできないが、死期が近づいてきたと自覚できるときは、「断食のようなかたちでそのときを迎えたい」と言う。死にたがっているのではなく、「いよいよのときというのを、自分で決定したい」という死に対する覚悟の姿勢がポイント。
「人生50年モデル」は室町時代以降のことだが、現代日本は「人生80年モデル」をつくることができていないと指摘。死に支度だけでなく、生と死のあいだに割り込んできた「老い」と「病」の問題を真剣に考えらければならない。だが、戦後の日本の教育は「生きる力」の大合唱だったが、人間の末期の姿を見つめる眼差しを完全に失っているのではないか。近代の福祉思想は、老人を支援される者として立場を固定しているのではないか…。
著者自身は死の準備、死の覚悟、自分の始末ということをずっと考え続け、かえって死ぬ気がしなくなるというパラドックスを感じている。
仏教にはろうそくの火が少しずつ細くなりすっと消えていくように、「静かにこころやすらいだ状態で消えていくことを理想」とする涅槃という考え方があり、仏教者たちの「断食往生」や「土中入定」、「補陀落渡海」、「焼身往生」などはそれを求める行であると言う。相当の精神力と覚悟が求められる行だが、著者もまた、断食を軸とした自然な流れのなかで「西行のように末期を迎えたい」、死してのちは「宇宙の微塵となって散らばる」ことができたらと切に願うと言う。
日本に火葬が普及した理由や死に対する観念、歴史的にある「自死の系譜」なども教えてくれる。
(山折哲雄著/角川学芸出版/760円)
BF058 『「始末」ということ』
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