BF164 『分水嶺』
2020年2月、新型コロナウイルス感染症が登場し、厚生労働省のホームページには新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードの「直近の感染状況の評価」が報告されるようになった。
「押谷先生提出資料」とか「鈴木先生提出資料」などいろいろとデータも示されるようになったが、「アドバイザリーボード」って意味もふくめて位置づけのよくわからない組織だなと思っていた。
だって、「advisory board」って顧問委員会とか諮問委員会という意味で、厚生労働省の諮問委員会としては厚生科学審議会感染症部会がある。それに、似たようなメンバーなのだ。
そもそも首相官邸には新型コロナウイルス感染症対策本部があって、内閣官房には新型インフルエンザ等対策有識者会議があった。
メールマガジンを配信するため、感染症関係の資料をチェックしたのだが、いったいどこのデータを掲載するのがいいのかおおいに迷った。
本書は、ごちゃごちゃと林立する政府と行政の機関にプロフェッショナルがどのようにつきあったのか、首相官邸の新型コロナウイルス感染症対策本部の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議に焦点をあて、2020年2月3日から7月3日までの5か月間だけを描いたドキュメントだ。
ラフにまとめれば、中国・武漢で発生した感染症は最初、未知のものだった。
日本政府の対応はのんびりしていて、感染症対策の専門家たちは危機感を募らせた。
そして、国民に感染症の実態を説明すべきだという信念のもと、「国から頼まれもしないのに、専門家独自で見解を発表したり、記者会見をする」という画期的な取り組みをしたということだ。
感染症の世界では「リスクコミュニケーション」と呼ぶそうだが、「ルビコン川を渡る」思いだったというから、専門家がジュリアス・シーザーよろしく政治、行政からの自立を決意する大変さを教えられる。
テレビにもよく登場した尾身茂さんはWHO(世界保健機関)でポリオ根絶、SARS対応を経験した。国立感染症研究所の脇田隆字さんはC型肝炎の研究者。
東北大学教授の押谷仁さんはSARS制圧に取り組み、東京大学教授の武藤香織さんは医療社会学が専門だ。
彼ら彼女らは感染症対策を考え、政府に説明をし、厚生労働省と調整をし、国民向けのメッセージを考えてとフル稼働した。
だが、国民が専門家たちを信頼することは、政府や行政にはみずからのイメージダウンととらえらることもある。
なので、政府への学校の一斉休校は安倍政権の独走で、専門家たちはテレビで知ったという。
無症状者から感染することを知らせるのは「国民が不安になる」と厚生労働省が抵抗した。
感染症拡大を阻止するための専門家たちの科学的な知見が、政治、行政の都合とぶつかるエピソードがたくさん登場する。
東京電力福島第一原発事故のときも感じたが、政府は非常事態時にこそ専門家の自立性を保障し、広く国民に情報を提供する機会を与えることが大切ではないか。
政府だって感染症や放射能にはアマチュアなんだから、国民と専門家の知見を共有したうえで、政治判断を示すべきだろう。
2023年7月現在、第9波が忍び寄っているとささやかれている。
同じようなことが繰り返されないことを願いたい。
なお、本書で「無謬性の原則」という概念を教えられた。
官僚組織は、政府が間違うことはない、という前提で物事を進めていく考え方だという。
思い出すのはドキュメンタリー映画『スペシャリスト~自覚なき殺戮者』(エイアル・シヴァン監督、1999年)。
ナチスの高級官僚・アイヒマン(1906~1962年)が絶滅収容所にユダヤ人を送り込む”効率的”な輸送計画を練ったのは、アドルフ・ヒトラー(首相)の命令に従っただけだと裁判で主張する姿に慄然としたことがある。怖い原則だ。
[厚生労働省]
新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(脇田隆字・座長)※2020年7月3日廃止
新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボード(脇田隆字・座長)
厚生科学審議会感染症部会(脇田隆字・部会長)
[内閣官房]
基本的対処方針等諮問委員会(尾身茂・会長)
新型コロナウイルス感染症対策分科会(尾身茂・分科会長)
(河合香織著/岩波書店/1800円+税)
