『あすなろ物語』や『氷壁』(ともに新潮社)など
長編小説、エッセイなど膨大な作品を残した作家が
1964年から10年間に発表した「随筆とも小説ともつかぬ」作品。
著者の母親が80歳のときに書いた『花の下』、
85歳のときの『月の光』、
89歳で亡くなったときの『雪の面』の3部作。
軍医を退官した父親は故郷の伊豆に戻り、80歳で亡くなった。
父親の死後、すぐ問題となったのは75歳の母親の身の振り方。
すったもんだの揚句、母親は東京で美容院を開いている末娘・桑子と同居。
「母は嫁の世話になるより娘たちの世話になることの方を望んだ」。
母親はとても元気だったが、
父親が亡くなる2~3年前から「物忘れがひどくなり、
同じことを二回も三回も続けて言うようになってきた」。
「母は楽しかった思い出をみんな失くしてしまった。
それと同じように辛かった思い出も失くしたのである。」
80歳より85歳のほうが「若返った感じ」で、
小走りに駆ける姿のなかに「はかなさとでもいったものを感ずる」と口にして、
すぐ下の妹・志賀子に「3日間おばあちゃんと一緒に暮らしてごらんなさい。
はかなさなんて感じる余裕はなくなってしまうから」と逆襲され、
うっかり「第三者的見解」を披露したことを悔やみ、
妹の気持ちを刺激しないよう話題を変えたくだりなどは、
静かな文章のなかにユーモラスな印象を与える。
晩年の母親は「4年のうち前半の2年は老耄も激しく、
依然として周囲の者をてこずらせ続けたが、
後半の2年は体の衰えと共に、老耄そのものもなんとなくエネルギーを失った感じ」だったという。
内省的でありながら流れるような文体が魅力的であるとともに、
旧民法の名残りが色濃い家族介護のなか、
家父長的な長男の立ち位置、
「本当に自分だけの世界を生き始めたんだね」と
母親に声をかけたかった息子の気持ちなどを伝える。
(井上靖著/講談社文芸文庫/955円)
