BF091 『やがて消えゆく我が身なら』

「身も蓋もなく」老いを考える
著者は「構造主義科学論、構造主義生物学の見地から
多彩な評論活動を行っている」のだそう。
本書は老いや死、病気などを考える
著者曰く「情緒と無縁」なエッセイ集。
人は死の恐怖を忘れたフリをしているが、それは
「社会というのは純粋な恐怖と純粋な欲望を隠蔽する装置」
だからなのだそう。
しかも、死は「確定的な事実」で変更不可能だが、
生は「確定的な事実」ではなく現在進行形で、
全くレベルの異なる概念なのだという。
具体的なのは、
著者の「80歳を過ぎたら死んでも手術は受けまい」という決意。
がん検診を受けた方が長生きするなら受けるが、
検診でがんが見つかったほうが、
見つからなかった場合より長生きできる保証はないからだ。
では、なぜ、がん検診があるかと言えば、
「好コントロール装置(この最大のものは国家権力である)の
コントロール欲望と、医療資本の金もうけ欲望が、
見事に一致して国民を不要な医療に駆り立てているから」で、
「検診を受ける金と時間を使って、本マグロの中トロをサカナに、
久保田の万寿でも飲んでいる方が絶対に長生きすると、私は思う」
と魅力的な断定をする。
しかし、高齢期になると
「老化とは徐々に進行していく体の不自由さを
後追いで脳が納得していくプロセス」で、
日常生活がなんとかこなせるうちは折り合いがつくが、
「誰かに日常生活のめんどうを見てもらうとなるとそうはいかない」。
「どんなことをしてもらうかを
自分で勝手に決めることができなくなるからだ」。
著者の父親は83歳で寝たきりとなり、
1年を過ぎた頃から「精神が荒廃していくのが
はた目にもわかるようになった」という。
そして、「老人の病気は治されるために治療されるのではない。
金もうけの手段として治療される」と悟った。
「父は気が狂わずに代わりにボケた。
ボケは死にたくない、
あるいは死にたくても死ぬ手段を奪われた、
寝たきり老人の適応なのだ、と私は思った」。
高齢者介護の最大の問題点は
「介護をする方のマニュアル化された
パターナリスティックな行為」と
「介護をされる老人のニーズ」が
「どうしたって齟齬を来すところにある」。
介護はサービスだから、
消費者(介護を受ける人)のニーズに
応えることが望ましい。
しかし、「介護される老人は様々な意味で弱者であり、
真の決定権を持たないのが普通だろう」。
だから、「介護をする方は、
いきおい消費者の代理人(介護を受ける人の家族)の
意向を重視するようになる」。
「重視されるのは介護人と家族の都合」になり、
「老人は単にパターナリズムの奴隷として
生活せざるを得なくなる」。
「明日は我が身」の著者は
ウルトラCを考える。
「寝たきりやボケる前にお金をどんどん使うこと」。
「金がないボケ老人は長く生かしておいても
もうけにならなから、きっと早く殺してくれるに違いない。
ステキじゃないか」。
(池田清彦著/角川ソフィア文庫/660円)

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