BF103 『陽子の一日』

在宅死の困難
陽子は信州の総合病院に30年間、勤務してきた医師。
シングルマザーとして息子を育て上げ、今年還暦を迎えた。
ある朝、病院での研修を終えたばかりの桑原からメールを受け取る。
そこには黒田という患者の「病歴要約」が添付されていた。
黒田は陽子のかつての同僚で、48歳で病院を辞め、「ここから車で2時間ほど山のなかに入った村」で診療所を開いた。
「病歴要約」とは医師による患者の病気の記録らしい。
小説は、陽子が病院の仕事をこなしながら、黒田についての8本の「病歴要約」と「考察」を読み、追想を繰り返すという凝った造りだ。
印象的なのは「病歴要約⑦」。
89歳の肺気腫患者が病院を退院し、その妻が家での看取りを希望したエピソードだ。
黒田は診療所を開いて以来、多くの高齢患者の意思に従い、「食事が摂れなくなっても点滴はせず」、「薬が飲めなくなれば熱が出ても抗生物質の投与もせず」、「およそ医師としてできることはなにもせず」に最期を看取っていた。
黒田はこれまで通り、その患者の往診を続けた。
だか、ある夜、急性胆嚢炎になり、4日間入院してしまった。
患者は黒田の入院中に死亡。在宅医が不在だったため、119番通報され、病院の医師が死亡を確認した。
都会から駆けつけた患者の娘は黒田の焼香を拒み、「父は家で死ぬことを押しつけられたのではないでしょうか」と非難した。
在宅死を望んだはずの患者の妻は「したたかに下を向いたまま黙して」いた。
黒田は「その場の状況にしたがっていかようにも在り方を変える村の住民の生きざま」を見せつけられた。
そして、次第に患者を失い、診療所スタッフとの仲を疑われ、看護師に辞められ、診療所をたたむことになった。
菅原の「考察」は、「医者は悪党の仕事だ」という黒田の口癖は「ひとが死ぬのを黙って見ていることのできるしぶとい神経の持ち主」でなければならないことらしいが、黒田は「悪党になりきれていなかった」というものだった。
地域医療、在宅死の困難をも指摘する作品。
(南木佳士著/文春文庫/637円)

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